ESSAY

エッセイ

ミルトス2006/12月号

5章 イスラエル音楽家との夢の共演

イスラエルの歌に魅かれて
☆ 5章 イスラエル音楽家との夢の共演

イスラエルの歌に魅かれて ――5章 イスラエル音楽家との夢の共演

◎魂うばうイスラエルフィルの音

  イスラエルフィルの音に魅せられたのはいつのころだっただろうか。
  僕がパリ留学中に行ったズービン・メータ指揮、イスラエルフィルのコンサートだったと思う。僕も、まだ十代の終わり頃で感受性豊かだったその年ごろの出合いは強烈に残っている。曲目は、たった一曲、ユダヤ人作曲家グスタフ・マーラー作曲、交響曲第二番「復活」だった。一曲といっても一時間以上ある大曲だ。
  普段はピアノの練習やコンサートでもピアノの音ばかり聞いている耳には、もっとスケールが大きく豊かで立体的に感じた。その時の弦の音には魂がうばわれてしまった。透き通るようなビロードのような、またはシルクのようなつややかな音。柔らかい何ともいえない響きだった。それなのに力強いところはどのオーケストラの音よりも火のように燃え上がるような情熱的なうねりをかもしだすのだった。それがはじめてのイスラエルフィルとの出合いだった。
  それから、僕はイスラエルに渡った時、その当時、イスラエルフィルに入団されていたチェロ奏者、山岸宜公氏を通して、よくオーケストラのリハーサル(練習)をみせてもらっていた。何ものにもかえがたい音楽を創ってゆく過程を実践的に学ばせてもらった。指揮者とオーケストラの関係、作曲家のスコアから、いかに最善、最高の音楽を再創造してゆくか。興味は尽きなかった。その時から僕の心の中には、いつかイスラエルフィルのために作曲したいという夢が芽ばえていたのだった。

  その後、日本に帰って来てからもその夢は僕の心の中で消えていなかった。
  僕の作曲したヴァイオリン曲をユダヤ系のヴァイオリニストに弾いてほしかったのだ。
  僕がイスラエルに行っていた時のヘブライ語の先生で深いきずなで結ばれた友人でもあるシムハ・マリン先生にお手紙を書いた。
  僕はどうしても自分の曲をユダヤ人のヴァイオリニストに演奏してほしい。誰かヴァイオリニストを知りませんかと自分の旨を伝えた。さっそくお手紙が来て、もうすぐ日本にイスラエルフィル管弦楽団が行くから、その中に知り合いのヴァイオリニストがいるのでその人を紹介してくれるとのことだった。

◎最高のヴァイオリニスト

  一九九一年十二月一日(日)、大阪のシンフォニーホールにかけつけた。その時もズービン・メータ指揮でマーラーのシンフォニー第六番「悲劇的」だった。この曲も一時間半ほどもある大曲だ。圧倒的な迫力の演奏で、一番前のほうで聞いていたが胸がしめつけられるような圧迫感に苦しいほどだった。マーラーは、自分の中の対立する矛盾や葛藤、死への恐れ、そして童心のような憧れをシンフォニーという形に表現しているように思える。イスラエルフィルの音はそのマーラーの情念に深い共感と情熱で火のように熱く燃え上がる。火花がこっちにまで散ってきそうに思えた。

  演奏が終わって楽屋口に行ったが、みんなすぐ隣のホテルに入って行くのであとをついて入っていった。すると以前、僕の家に遊びにきてくれたことのあるオーボエとイングリッシュホルン奏者のメリッル・グリーンベルグさんと会った。ひさしぶりの再会を喜び合った。
  実はこの人もシムハ先生の友人で、彼から以前紹介してもらった人だ。シムハ先生に紹介していただいたヴァイオリニストの名前、メナヘム・ブラアー氏と伝えると、すぐに探し出して連れて来てくださった。
  僕はもっと若手のヴァイオリニストかと思っていたのが、何とその人はイスラエルフィルのコンサートマスターで、その中でも最高のヴァイオリニストだったのだ。自分にとっては雲の上の人のようだ。でも、せっかく紹介していただいたのだ、話だけでも聞いてもらおうと思った。彼のホテルの部屋で名刺をくださり、いろいろと僕の話を聞いてくださった。

  しかし最終的には自分の音楽を聞いてもらわなければ何もはじまらない。以前、京都で録音したテープをお渡しした。その中に、マルク・シャガールの絵より作曲した『ヴァイオリンのための三部作』と、『雅歌』という自作の曲が入っていた。僕は、持ち前の勇気をもって言った。「もし、このテープに入っている曲を聞いて感動してくださったなら、僕と一緒にコンサートをしてくださいますか」と。
  彼は、とても誠実であたたかい心の持ち主で僕の話をよく聞いてくださり、イスラエルへ帰ったら必ず聞くと約束してくださった。
  その日は、素晴らしい感動的な演奏に揺すぶられ、その上、大ヴァイオリニストに僕の音楽のテープを手渡せたので、胸いっぱいの想いで帰路についた。

◎返事が来た!

  それから、どれくらいしてからだろう……。イスラエルからの返事をあきらめかけていたころだっただろうか。三カ月ほどして一通のファックスが送られてきた。   英語の文章で発信はイスラエルからだ。
  胸が踊った。どんな内容であれ、返事をいただけただけでもうれしかった。
 
音楽を聞かせてもらった、とある。ああ、やっぱり約束を守ってくださったのだ。あとは少しでも感想かアドヴァイスをいただけたらそれで本望だと思っていた。
  そして続いた。「君の音楽を聞いて、とても感動した。コンサートはイスラエルでするか? 日本でするか?」と書かれてあった。とてもシンプルだ。何の迷いもなく、日本でやりましょう、とお返事したのだった。夢のようなことが本当になってしまった。その日からコンサート実現にむけて心を一つの方向にむけてゆくのだった。
  僕は、この歴史的なコンサートのために一つの詩を書いた。それは、僕の心からの願いでもあり祈りでもあった。そうして、その詩から一曲のヴァイオリンのための無伴奏曲が生まれた。ここにその自作の詩を紹介する。

  シオンの丘より
  風がシオンの丘から吹いてくる
  あなたは雨のようにわたしの心を潤される
  光が雲間から射し込み
  わたしにあの約束の虹をみせてくれた

  ガリラヤの草原に咲く花たち
  あざやかな花たちが歌うあなたの祝福を……
  シャロンの花よ
  わたしはあなたのためにこの愛を奏でたい
  わたしの涙の詩を

  わたしがどんなにあなたを愛しているかわかるでしょうか
  分かちあいたいのです この愛を
  世界に喜びが満ち溢れるときまで……
  神の光と愛が永遠に注がれるまで……

 自作の詩から生まれた自作曲をイスラエルへお送りした。送ったあとで、ある日本のヴァイオリン奏者に試しに楽譜をみてもらったら、はじまりの音から演奏不可能だと言われた。ヴァイオリンの弦は四本しかない。しかし僕の書いた曲のはじまりからして、五本の弦がなければ弾けないという。ああどうしよう。もう、送ってしまったあとだ。あとの祭りだった。

◎コンサートの準備

  まず、コンサートをする場所を決めたり、曲目を選んだり、海外からの演奏家を日本に招聘する手続きなど、しなければならない準備がたくさんあった。
  一年以上かけて、多くの人たちの協力もあって、コンサートのための準備が整えられていった。

  メナヘム・ブラアー&林晶彦コンサート日程
  1993年 6月13日 京都園部国際交流会館コスモホール
6月19日 奈良 秋篠音楽堂
6月22日 姫路 パルナソスホール

  以上三カ所で行なわれることに決まった。
  六月八日(火)、待ちに待ったメナヘムさんが来日された。僕のためだけにイスラエルフィルの仕事も休んで来てくださったのだ。
  来られた翌日、九日からスタッフが集まって打ち合わせをしてから、ヴァイオリンとピアノのリハーサルがはじまった。

  僕の音楽スタジオに入って来られたメナヘムさんは、さっそくヴァイオリンケースからヴァイオリンを取り出すと、クラッシックの大作曲家のヴァイオリン協奏曲のフレーズを弾きだされた。僕と妻の智子は、その音の響きに感動してしまって涙がでてきそうになった。コンチェルトのソロを奏でるメナヘムさんのヴァイオリンからは、あのイスラエルフィルの力強いそして柔らかくも情熱的なオーケストラの響きが聞こえてくるのだった。
  シベリウス、ブルッフ、メンデルスゾーン、モーツアルトのヴァイオリンコンチェルト。まるで、僕の小さな音楽室にイスラエルフィルが入ってきて演奏しているような錯覚にとらわれた。魂をうばわれるようなヴァイオリンの音色だ。

コンサートで演奏する曲目は、
●ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲
ヴァイオリンソナ第一番ロ短調
●モーツアルト作曲
ヴァイオリンソナタ第二五番ト長調
●シェーンベルグ作曲
  ヴァイオリンとピアノのための幻想曲
●そして僕の作曲した、林晶彦作曲
  マルク・シャガールの絵画よりヴァイオリンとピアノのための三部作
  無伴奏ヴァイオリンのための『シオンの丘より』
●最後に、旧約聖書より愛の歌
  ピアノとヴァイオリンのための『雅歌』

  バッハの曲から練習をはじめた。世界的ヴァイオリニストの音は柔らかくつややかな音色だった。
  そして、深くから響いてくる生命のあるあたたかい人間の音がする。バッハの音楽に血がかよってくる。モーツアルトの練習をしている時に、第一テーマから第二テーマへ移り変わる時「にこっと笑え」とアドヴァイスされた。その通りに顔の表情を変えると音のフレーズもその通りに変わってゆく。いろんな大指揮者との共演の時のことをお話してくれたり、音楽創りを実践を通して身につけさせられた。

◎楽譜に忠実に!

  ユダヤ系の作曲家アーノルド・シェーンベルグの「幻想曲」という曲は、とても難解な音楽でピアノとヴァイオリンを合わせるのがとても難しい。
  ひとりで楽譜を読んで毎日数小節ずつ練習していたが全体像がよくつかめない。グレン・グールドがピアノを弾いたCDを見つけたので楽譜を見合わせながら独学していた。なんとか自分なりにグールドの演奏を助けに練習していたのだった。

  そのシェーンベルグの曲の練習の時、二人で合わせていたが何かしっくりいかないらしい。
「なぜ、おまえは、そんな弾き方をするのだ」と指摘された。僕は「譜面からだけでは音楽をつかめなかったので、グールドの演奏を参考にして弾いていました」と正直に告白した。
  メナヘムさんもこの曲と取り組むのは、はじめてだという。「もう一度、白紙にして、このシェーンベルグの楽譜から忠実に読みとって演奏しよう!」と言われた。何という音楽に対する誠実な取り組み方だろう。音楽に対する真摯な姿勢を学ばされたことだった。

  彼はイスラエルでグレン・グールドとチェロのジャクリーヌ・デュプレなどとも共演していた。音楽は、いろんな解釈が可能だろう。
  グールドの解釈ではなく、シェーンベルグの楽譜をもとに自分たちの解釈でやろうと彼は言いたかったのだろう。こんな青二才の僕をも一人前の音楽家として認め、扱ってくれる彼のあたたかい大きな人間性にふれて自信を取り戻してゆくのだった。

◎シャガールから生まれた曲

  自作の曲の練習の時、僕は、水に帰った魚のようになった。メナヘムさんは、僕の音楽を深く共感をもって演奏してくださった。
  マルク・シャガールの絵より作曲した曲。シャガールも、ロシア生まれのユダヤ系の画家だ。僕は、その絵が醸し出す雰囲気、色彩、幸福感を音にしたかった。メナヘムさんは、それを深く汲み取り、あのユダヤ人特有のヴァイオリンの歌わせ方で僕の曲を演奏してくれた。二人で話し合いながら、さらによい演奏になるよう練習に熱が入った。いつも毎日八時間は練習した。

  気にしていた僕がイスラエルに送った曲はなかなか出してくれない。どうなったのかと勇気を出して聞いてみた。すると彼は待ってましたとばかり、自分のカバンの中からその楽譜を出してきた。そして彼は言った。   「なぜ、君は、あんなに難しい曲を作ったのだ」と言って僕の首をしめに来た。そして「お前を殺す」と言いながらも、何だかうれしそうだった。そして彼いわく、イスラエルで彼の友人であるヴァイオリニストのイツァーク・パールマンと、同じくヴァイオリニストのピンカス・ズーカーマンと一緒にどうやったらこの曲を弾けるようになるかと頭を練った上で、特殊奏法をあみだして演奏可能にしてくださったそうだ。絶対不可能なところは少し音を変えたりしながら、彼は、僕の無伴奏ヴァイオリンのための『シオンの丘より』という曲を素晴らしい響きで演奏してくださったのだ。
  僕は感激してしまって、どんなに感謝してよいかわからなかった。イスラエルフィルの練習やコンサートが終わってからも、毎日かかさず何時間も練習してくださったそうだ。一日でも練習をしなかったら弾けなくなってしまうほど難しい曲だと言われた。首をしめられても仕方がないと思った。

◎「雅歌」のイメージで作曲

  旧約聖書の『雅歌』は、愛の詩のように描かれている。"Song of Songs"と言われるように歌の中の歌だ。シャガールもこの主題で絵を描いている。
  僕は雅歌のテキストを何度も読み祈り、また、シャガールの絵を見てイメージを湧かせながら作曲していった。
  メナヘムさんのヴァイオリンからは、真にユダヤ民族の長い歴史の音が聞こえてくるようだ。泣きたくなるぐらい切ない音で『雅歌』の魂を歌う。それは、僕が夢にまでみていたイスラエルフィルの音だ。ここにメナヘムさんからの雅歌についてのメッセージを、下記の通り引用させていただく。(CD『雅歌』より)

 CD『雅歌』
  雅歌は、ソロモン王の作とされる、熱烈な愛の讃歌です。この偉大なラブソングは、時代を越えて、数知れない作家、芸術家、作曲家にインスピレーションを与えてきました。
  当然ながら、雅歌には無数の解釈がなされてきました。たとえば二千年のディアスポラの間、ユダヤ人は雅歌を、彼らの祖国への神の愛の象徴とみなしていました。第二次大戦後に建国されたイスラエルでは、パルテス(Partes)、ベスコビッチ(Beskovich)、ブラウン(Braun)、ベン・ハイム(Ben-Haim)など、多くの作曲家が雅歌に啓発された作品を残しています。また多数の民俗舞踊団や合唱団が、雅歌をその活動に取り入れています。
  しかし……究極的には、力強い詩的な言語で綴られた二人の人間のたぐいまれな愛が、私たち多くの胸に語りかけるわけです。
  林晶彦の雅歌は、自由詩として書かれています。第1テーマはヴァイオリンが奏で、続いてピアノ・ソロとヴァイオリン・ソロのカデンツァ。ふたたび静かな間奏部となり、嵐のようなセクションがそれに続きます。そして最後は非常に静かで安らかな音楽となります。
  雅歌をモチーフに書かれたこの音楽を作曲家・林晶彦と共演し、私はその音楽的な言語力に圧倒されました。(東洋と西洋が絶妙に融和し、さらにイスラエル的な香りが付加された独得の世界でした)表現がきわだって純粋です。偽りのない気持ちや誠実さと同時に、もっと友愛に満ちた環境・よりよい世界を求めてやまぬ心の、渇望の痛みも感じ取れます。こうした感性こそ、私たちの魂や心を満たしてくれる純粋な愛の素地となるものです。
  私たちの心にある全き愛と、私たちを取り巻く環境とは、おそろしく離反しています。この世には美と善とが満ちているというのに、様々な邪悪な力のほうが優位を占めている現実は、受け入れがたいものです。そうして現実の中で、この理想主義的な音楽を聞くと、「なんと素晴らしいのだろう、そんな素晴らしい世界を望むことができようか?」という疑念が沸き起こります。鮮烈なこの感覚こそ、この美しい作品の第一の特徴であり、私たちを楽天主義的な心境へと向かわせてくれるのです。
               メナヘム・ブラアー(日本語訳・関順子)
……(後略)

デビュー30TH記念コンサート『林晶彦の世界~永遠への飛翔~』
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