ESSAY

エッセイ

ミルトス2006/10月号

4章 ブルガリアの旅 ユダヤ人を救った国

イスラエルの歌に魅かれて
☆ 4章 ブルガリアの旅 ユダヤ人を救った国

今年二〇〇五年六月の中旬から、フィンランド夏至の旅ツアーに日本から参加した。
ヘルシンキから北上し、ラップランドまで行った。森と湖の国フィンランド。大自然の声、地球の声を聞くような旅だった。それからヘルシンキ、イタリアのローマに飛ぶ。ここからは一人旅だ。重いリュックを背負ってローマに着いた時、温度差と人の多さに驚いた。
大自然の中から人間くさい都会に迷い込んだかのようだ。そこから汽車で二時間、憧れの地アッシジへ向かう。あのフランチェスコの聖地を祈りと共に過ごした。また、ローマに戻りバチカンを訪れ、サンピエトロ寺院の中にあるミケランジェロのピエタを見た。その日はカトリックのペテロとパウロの大祝日にあたり、荘厳なミサが行われていた。パイプオルガンと大合唱によるヘンデルのメサイヤからのハレルヤコーラスが、大聖堂に鳴り響いた。新しいローマ法王ベネディクト十六世も赤い祭服を着てミサに参列しておられた。
           。 そしてローマから音楽の都ウイーンへ。一泊二日の短い滞在だった
七月一日(金)  ソフィアに夕方四時ごろ到着。マパスポートチェックを経て、両替所でユーロからブルガリアレヴァに両替をする。空港の出口を出たら、ブルガリア人の若い男性が出迎えに来てくれていた。車に乗ってソフィアの町に向かう。はじめてのブルガリアの地、何もかも新鮮だ。いつも、自分にとって初めての国に行くのは、わくわくするような気持ちになる。
ソフィアの町に入りブルガリアホールに行くと、一日目のワークショップも終わりの方だった。ラフマニノフのピアノ協奏曲二番のオーケストラとピアノのリハーサルを聞く。
日本人の為のオーケストラワークショップで、ヴァイオリニスト、ピアニスト、指揮者などがさんかしておられた。作曲家としての参加者は僕一人だった。

☆ソフィアの町を歩く
七月二日(土)朝食後、ホテルの近くにあるアレクサンダーネフスキー教会に行ってみる。ここはブルガリア正教が国教だ。中に入るととても静かで気持ちが休まる。美しく描かれたイコンが沈黙の中から語りかけてくるようだ。帰り道、教会の前の朝市で、古い金色の小さな十字架を買う。
朝のワークショップでは、シベリウスのヴァイオリン協奏曲から聴くことができた。少し前、フィンランドでシベリウスの家に行ってきたばかりなので、彼の音楽がとても身近に感じられた。幸いにも、アイノラ(シベリウスの家)で彼の使っていたピアノを弾かせてもらった。その音色は深く透明で、シベリウスの音楽そのものだった。
音楽の本質とはなんだろうと思いながら聴いていた。きっと、音楽とは何かを表現することなのだ。歌でも、ギター一本でも、オーケストラでも、どんな形態でも同じ。音楽とは言葉を超えた心の語法なのだろう。
  お昼は、昨年日本に来日していたソフィアフィルのフルーティスト、クレメナ・アーチェバさんとホテルのレストランで楽しく食事をした。いつか彼女のためにもフルートの曲を作曲すると約束している。彼女のおごりでアイスクリームとアイスコーヒーをご馳走になる。ブルガリアのアイスコーヒーは、あたたかいコーヒーにアイスクリームがのっているのだ。ボーイさんに頼んで別に氷を持ってきてもらって入れた。やはり日本人の僕には、暑い季節には冷たい氷がたっぷり入ったアイスコーヒーがいい。それから雨の中、傘をさして二人でソフィアの町を歩いた。国立劇場、噴水のある公園、大統領低、古い時代の博物館(考古学博物館)にも連れて行ってもらった。そこにはローマ時代のもの、ギリシャ時代の石の彫刻やその当時使われていた生活に必要なものが展示されている。石壁に描かれた絵にはギリシャ文字やラテン文字、ブルガリアの言葉以前のもので書かれている。アーチェバさんは、キリル文字はロシアからではなくブルガリアからはじまったと教えてくれた。雨の中、傘をさしてホテルまで送ってもらう。
  今日の朝ネフスキー寺院に行った時、体験したことを書こうと思う。ブルガリア正教の人たちは、聖堂に入ったら必ず空間の真ん中にある大理石に描かれた円形の星の中心に立って、十字を切り、前方のイコンのある祭壇に向かって歩き、そこで祈りを捧げていた。僕も同じように試してみた。天にも届くかのような高く手広い空間の中心に(星型の真ん中)立つと、神の前にひとり在る自分、天と大地が結びつくような、とても静かな平安というか安息を感じた。
「自分の中心に聖なる場所をもつこと」
ここで体験したことを忘れずにいたい。

☆リラの僧院へ
七月三日(日)
  朝八時、ホテルのロビーに参加希望者と共に集合する。ブルガリア人の若い女性が通訳として同行してくれる。彼女の名前はリュボミラといって、日本の秋田に一年間留学していたことがあり、とても流暢な日本語を話される。ソフィア大学でも日本語と日本文化について学んでおられたそうだ。   小型バスのような貸切の車に乗って出発した。ミラ(リュボミラさんの愛称)さんのガイドでとても楽しいものになった。ソフィアからリラの僧院までは来るまで二時間ほどで、その間、ミラさんのわかりやすい日本語でブルガリアの歴史や言葉や文化などについて話を聞く。何を質問しても日本語で答えてもらえるのでとても幸運だった。時々ミラさんの知らない日本語を教えてあげたりしながら、車の旅を楽しんだ。途中、見渡す限り広いなだらかな丘、そして平原。今までに見たことのないブルガリアの自然の風景がひたすら続く。ブルガリアンボイスの合唱の響きがどこからともなく聞こえてきそうな広々とした自然。美しい風景のところで車を止めてもらって写真を撮る。ある小さな村に立ち寄った時、民家の屋根の上に鳥の巣がみえた。聞くとコウノトリの巣だという。コウノトリが巣の中にいるのが見える。ブルガリアでも幸運を呼ぶ鳥として大事にされているようだ。小さな男の子と女の子がニコニコしながら手を振ってくれた。きっと兄と妹だろう。みんなと一緒に写真に入って嬉しそうだ。世界中どこへ行っても子供たちの笑顔は心をなごませてくれる。   ミラさんからいろんなことを教えてもらった。ブルガリアの首都ソフィアは海抜五五〇メートル、昔はトラキア人が住んでいて、十五世紀からソフィアという地名になったらしい。今から行くリラの僧院のあるところは海抜一二〇〇メートル、リラの語源は「水の多いところ」という意味だそうだ。リラの僧院の歴史は一〇世紀ごろ、イヴァン・リムスキーという奇跡を起こしたといわれる聖人から始まったらしい。とても興味深い。いつかその時代の歴史を読んでみたい。
  山道を車はどんどん上がっていく。いつだったか「世界遺産」という番組で知ったリラの僧院、いつか行けたらと願い憧れていたが、今そこにたどり着こうとしている。
  山々に囲まれた僧院の入り口に車を止め、門をくぐると、東方教会独特のブルガリア正教の魂というべき修道院が山々を背景に姿を現した。

☆ ユダヤ人を救ったボリス三世
  僧院内にある博物館を見学する。ミラさんが、一つ一つこと細かく日本語で解説してくれる。ブルガリアもロシアと同じで信仰の対象にイコン(聖像)が描かれている。
数々の歴史的なイコン、聖人たちの肖像画などを見ながら受難の歴史に思いをはせる。
  特に僕の心に強く焼き残ったものがあった。ミラさんが説明してくれなかったら見過ごしてしまうほどの小さなものだ。
  それは五十センチほどの木の十字架だった。「よく近づいて見てください」と言われたので近づいてみると、その十字架に細かく彫刻されている。聖書の物語を描いているらしい。一センチにも満たない中に人物が彫刻され、顔や目や口、鼻も彫られている。そして何と手の指の爪まで彫刻されているではないか。この十字架いっぱいに聖書の物語を彫刻するのに、十二年かかったそうである。その修道士ラファイルは木彫りを終えた時、視力はすっかり失われていたと伝えられている。「なぜここまでするのですか?」という僕の問いに。通訳のミラさんは「精神を守るために・・・」と。僕が「アイデンティティーを守るため?」と聞くと、「そのとおり」と答えが返ってきた。それはブルガリア人の持つ
スピリットだ。精神・自己存在の自己確認、この国の奥深さを垣間見たようだった。
  ミラさんに案内されて、ブルガリアの王ボリス三世の心臓が埋葬された棺のあるところで話を聞く。
  ブルガリア人は第二次世界大戦中、ほぼ全国民の努力によって、自国内のユダヤ人を救ったという世界に誇るべき過去をもっている。また、トルコで虐殺や迫害を受けていたアルメニア人に、安全な避難所を用意したという話もある。ボリス三世はドイツの圧力にもかかわらず、ブルガリアに暮らすユダヤ人たちの命を守ったのである。ミラさんからその話を聞いてとても感動した。ドイツ・イタリア・ソ連からの圧力、日独伊三国同盟への加入、議会が参戦を決定した直後、国王は姿を消した。数時間後、彼はソフィアにあるアレクサンダル・ネフスキー教会の暗い片隅で、深い祈りを捧げているところを発見された。
  その話を聞いているとき、一人の日本人外交官のことが思い出された。ちょうど同じ第二次世界大戦中にリトアニア領事代理を務め、ドイツ軍の迫害を恐れ逃れてきたユダヤ人に外務省の反対を押し切り日本通過ビザを発給、約六千人もの命を救ったといわれる杉原千畝さんのことだ。そして、一九九五年の一月一七日、阪神・淡路大震災の時のことだった。音楽家の友人が橋渡しとなり、彼に助けられたユダヤ人やその子孫たちが、ニューヨークで1週間のマラソンコンサート(神戸に贈る復興支援コンサート)を開催し、その基金を神戸の復興のために寄付してくれた。その時僕は自作曲を捧げたのだが、命を救われたユダヤ人たちが、今もその音を忘れずにいて、神戸の震災のためにしてくれたことに感動を覚えた。
  ボリス三世、杉原千畝さんにしても、ひとりの人間の愛と勇気がこんな偉大なことを成しうるのだと思う時、本当に生き方が問われる。人間として、いかに決心して生きれるか。
  僕は何かリラの僧院を訪れた記念になるものがほしかった。院内のお店で聖母マリアと幼子イエスのイコンを買い求める。ちなみにイコンは胡桃の木からできているそうだ。
  帰り道、近くのリラ川でとれる「マス」の料理を食べさせてくれるお店に案内される。
三十センチほどある大きなマスだ。フライにしてレモンをかけて食べる。新鮮で香ばしくとても美味しかった。心に残る日帰りの旅だった。

☆ 夜の散歩
  夜、ソフィアの街を一人で散歩する。ソフィアホールの楽屋口が開いていたので入ってみると、中から音が聞こえてきた。オーケストラのリハーサル中だった。二階席からみると巨匠を思わす指揮振りの指揮者が、マーラーのシンフォニーを振っていた。オーケストラはもちろんソフィアフィルで友人のフルーティスト奏者のアーチェヴァさんも吹いている。少しばかり経って聴いていた。
  とても豊かなオーケストラの響きに心を奪われるようだった。グスタフ・マーラーのシンフォニー第五番だ。マーラーもユダヤ人だったのを思い出した。
  ホールを出て夜のネフスキー教会に行ってみる。広い広場は人影もなく、教会も閉まっていた。行きとは違う道を通って帰る。大きな建物がネオンで照らされて立派に見える。
歴史のある都を感じさせる。昔、青年時代パリにいた頃を思い出す。パリほど華やかではないが、同じヨーロッパのある種の寂しさ、孤独感に身を包まれる思いがした。
  この年、僕は五十になった。この旅は、神様からのプレゼントだ。こんなに多くの国を一度に旅したのは初めてだ。みんな違って個性的だ。それぞれの土地のにおい、民族の声がある。
  声で思い出したが、あのブルガリアヴォイスは、まさにブルガリアの精神と自然の息吹を感じさせる
  今日のガイド役のリュボミラさんは、とても日本好きのチャーミングな女性だった。彼女の通訳のおかげで、とてもよくブルガリアの歴史を知ることができた。日本からもってきていたプレゼント用の香り袋を彼女にあげたら、とても喜んでくれた。

☆ 恩を忘れないユダヤ人
七月四日(月)午前中は、夜のコンサートのためのリハーサルがあった。
ベートーベンのシンフォニー第五番「運命」の第一楽章、チャイコフスキーのシンフォニー第五番など、ソフィアフィルのメンバーはとても友好的で、いい音楽をしようという努力をおしまない。同じ音楽家として、嬉しい限りだ。
  このワークショップに参加されていた後藤さんと、ソフィア市内にあるナショナルギャラリーに行ったが閉まっていたので、別のところでお土産を見る。
  ブルガリアの民族的な服や楽器、手作りの品などが売られていた。それから、またネフスキー教会に行ってみたくなった。何かとても気持ちが落ち着く場所なのだ。この日は観光客が多かった。
  僕たちが教会の入り口を出た時、聞き覚えのある言葉が聞こえてきた。団体の人たちにガイドが説明している言葉が、ヘブライ語だったのだ。何だかとても懐かしい気持ちになり、近くにいたキッパー(ユダヤ教の男性が着用する円形の帽子)をかぶっている男性に話しかけてみた。僕の片言のヘブライ語が通じた。昔、青年時代イスラエルに留学していたことがあったので、とても嬉しかった。少しおしゃべりをしたが、心が通じ合うようで親しみがわく。しかし、なぜユダヤ人の彼らがキリスト教のネフスキー教会に入るのだろうか。ユダヤ教の人々は絶対にキリストの教会には行かないはずなのに・・・。疑問がわき起こった。その時、僕はハッとした。もしかしたら、この人たちは、第二次世界大戦の時、ボリス三世によって助けられたことの恩返しとして、祈りを捧げに来ているのではないだろうか・・・。
  彼らは受けた恩を忘れない民族なのだ。神戸の震災の時もそうだったのを思い出していた。このことは、僕の中で忘れられない光景として心に残った。

☆ 長崎原爆の絵の前で即興演奏
それからネフスキー教会の近くにあるインターナショナル・ファンデーション・アートギャラリーに行ってみる。荷物を預けて階段をのぼってゆく。いちばん上の大きなギャラリーにたどりつくと、そこには大きな壁一面の絵が、大きな展示場の両面に対になってあった。
一緒に行った後藤さんが驚きの声をあげた。その絵は日本人画家「丸木位里、丸木俊ご夫妻」の描かれた長崎の原爆の絵だった。
丸木さんご夫妻は、一生をかけて戦争の絵を描いてこられ、平和の尊さを訴え続けてこられた方である。
その広い空間の部屋には、なぜかフルコンサートグランドピアノが置いてあった。後藤さんがこの絵のあるところでピアノが弾けたらいいねと言ってくださったけど、僕は無理にちがいないと思い込んでいた。ところが、彼女が係りの人に、日本人の作曲家だがピアノを弾かせてもらえますかと尋ねたところ、何と「どうぞ」と私たちの心をくむように気持ちよく了解して、椅子を持ってきてくださった。こんな遠い国で、それも日本人の描いた長崎の原爆の絵の前でピアノを弾くことができるなんて夢みたいだ。今年(当時二〇〇五年)は戦後六〇年目の大きな節目の年、祈りを込めて自作の「平和を求める祈り」という曲を、即興を交えながら奏で捧げた。 偶然か、必然か・・・。神様の導きのように感じた。帰り際に、荷物を預けたところの係りの人たちも音楽を聞いておられたようで、絵はがきのプレゼントをたくさんもらった。
この出来事も僕の心に深く残るものとなった。国や民族、宗教を超えて通じ合い、信頼できるもの。それはまことの人間としての尊い生き方だと思った。

ブルガリア最後の日の夜、ソフィアフィルによるコンサートがあった。僕の弦楽オーケストラのための「道(ラ・ストラーダ)」から始まる。
指揮者の棒から弦の響きが静かに流れ出す。人生の色んな道を通りながら音楽は進んでゆく。この旅の最後の地でオーケストラの演奏を聞きながら、過去に、未来に思いを馳せた。ある時、流星が流れ、星座が天空をゆっくりとまわりはじめた。

しだいに広くなる輪を描いて
  わたしのいのちは生きる
さまざさな物の頭上にひかれる輪を。
たぶん、最後の輪は閉ざすことはできまい。
だが、ためしてみよう、
  最後の輪のもっとも大きな輪を。
わたしはまわる。
  神のまわりを、太古ながらの巨塔を。
何千という年また年、
  旋回はやむことがない。
わたしには まだ判らない。
  じぶんが鷹なのか、それともあらし、
それとも おおきな歌なのかが。・・・
           (リルケの詩より)

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