ESSAY

エッセイ

ミルトス2006/8月号

3章 音楽修業 イスラエル人の愛に感激

イスラエルの歌に魅かれて
☆ 3章 音楽修業 イスラエル人の愛に感謝

僕は自分のわがままを通してイスラエルへ来てしまった。今度は旅行ではなく、この地で音楽の勉強を続けながら生活してゆかなければならない。まずは住むところを探すことそしてピアノを貸してもらえるところを見つけることだ。言葉はヘブライ語といって、イスラエルという国が建国してから(一九四五年建国)古代の死んでいた言葉を復活させ現代によみがえらせた。イスラエルの国の共通語だ。
  最初にテルアビブの近郊の町、ラマットアビブにあるアパートを借りた。そしてウルパンというヘブライ語の学校に入った。日本人は僕1人だけだった。ロシア、ポーランド、アメリカ、カナダ、中国、アフリカ、ルーマニアなど、世界中のあらゆる国から来たユダヤ人がいた。僕もみんなからユダヤ人だと思われていたかもしれない。とても打ち解けた雰囲気で楽しかった。

         *   それからはピアノ探しだ。いろんな楽器店を回り、ピアノを貸してくれないか頼んだ。しかし、どこの店もピアノは貸してくれなかった。よく考えてみると、汚いジーンズ姿で長髪のヒッピーのような身なりだったので、誰もこの若者に貸してもお金を払ってもらえないと思ったのかもしれない。実際そうだった。でも諦めないでもう1軒だけと思ってあるピアノ店に入った。
「ピアノを貸してほしいのですが・・・」
そこの店のおじさんはとても親切で、色々と僕の身の上話を聞いてくれた。パリから来てイスラエルで音楽の勉強をしたいことなどを伝えると、おじさんは言った。
「私にピアノを聴かせてくれないか?」
長い間ピアノの練習をしていなかったけれど
僕は覚えている曲や自作の曲などを何曲か弾いた。
聴き終わってすぐにおじさんは一言「貸してあげよう」と言ってくれた。それも僕が貧しい学生だと察してか、お金は要らないという。その時の感謝の気持ちは、言葉では到底言い表すことができないほどだった。
なぜこんなに親切にしてくれるのだろうと考えた時、「ああ、そうか!」と気づいた。
今まで訪ねたピアノ店の店主はみんな目が見えていたけれど、この人は目が不自由だ。だからピアノを弾いてくれと言われたのだ。僕の外側の身なりで判断しないで、心で僕を、そして僕のピアノを感じてくださったのだ。盲目の調律師でもあり、音楽を聴く心の耳をもっておられた。彼は戦争で両眼の視力を失ったそうだ。その時から僕と目の見えないパレイさんは親しい友達になった。
  アパートにピアノを運び、やっとピアノを弾くことができるようになった。まだカーテンも家具も何もない部屋でピアノを弾いていると、向こうのアパートのカップルが聞いているのが見えた。弾き終わって窓に近寄り、「シャローム(こんにちは)」と言うと、遊びに来ないかと手招きをしている。行ってみると、イスラエル人の男女でとてもいい人たちだった。コーヒーやとケーキを出してくれて楽しく話をした。大学で専門の勉強をしているらしい。イスラエルでは、兵役を終えてから大学に行くので、二十五歳だと言っていた。音楽も大好きらしく、音楽の話に花が咲いた。僕は友人ができたので嬉しかった。

☆ピアノの先生 アシュケナージ氏の親切
少し生活も落ち着いてきたので、テルアビブの音楽大学(ルービンミュージックアカデミー)へピアノの先生を紹介してもらいに行った。まだヘブライ語は片言しか話せなかったので、英語で話をした。ロシア人のアレクサンダー・ブッフというお年を召したピアノの先生にレッスンを受けることになった。その先生はロシア語しか話せなかったけれど、ピアノのレッスンにおいては何の支障もなかった。
そして何度かその先生のレッスンに通ったが、やはり英語を話せる先生の方がいいだろうということで、新しい先生を紹介された。やはりロシア系ユダヤ人のピアニストでボリス・ベルマンという名前だった。
ベルマン先生の家に行ってレッスンを受けることになった。その先生はオボーリン(ロシア系の大ピアニスト)の弟子で、作曲、指揮、チェンバロも弾かれるイスラエル最高のピアニストの一人だった。とても丁寧に教えてくださった。パリで学んだ奏法とは違っていたので、はじめは戸惑ったけれど、とても深い洞察力を持った方で、学ぶところがたくさんあった。ベルマン先生には僕がイスラエルを離れる時までお世話になった。そうやってだんだんイスラエルでの生活や音楽の勉強も軌道にのってきたのだった。
         *
あの憧れのイスラエルフィルのコンサートにもよく足を運んだ。
当時日本人のチェリストで山崎さんという方がおられたので、彼を通してよくオーケストラの練習を見せていただいた。指揮者とオーケストラの熱い意見のやりとりの中で、素晴らしい音楽が創造されてゆく過程を見るのは、本当にエキサイティングだった。
忘れられないコンサートは、イスラエルの現代舞踏団とイスラエルフィルとの共演で、音楽はフランスの作曲家「プーランク」のオルガン、ティンパニーと打楽器のための協奏曲。現代的な振付、色彩的でドラマティックな音楽を背景に踊るダンサーたちイスラエルは創作ダンスも大変盛んだ。
  ある時はイスラエルフィルの国内ツアーのバスに乗せてもらって、一緒にまわったこともあった。リハーサルから本番までずっと見ることができたのは、とても貴重なかけがえのない体験だった。多分マルケヴィッチ指揮でムソルグスキーの「展覧会の絵」だったと思う。
  ある日プロコフィエフのピアノ協奏曲のリハーサルを見させてもらっていたのだが、どこかで見たことがあるピアニストだなぁと思っていたら、ウラディミール・アシュケナージだった。日本でもパリでもよくコンサートに行ったピアニストの一人である。
リハーサル終了後、僕は勇気を出して「ピアノを教えてください」と真剣に頼んだ。すると彼は舞台の上から「今は忙しいけど、この日はここにいるから電話をしてきなさい」と1枚のメモをくれた。そこには彼の住所と電話番号が書かれてあった。それから何日か後、郊外にある音楽家が滞在するルービンシュタインルームを訪れた。ベルを押すと奥様が出てこられ中へ招き入れてくださった。その部屋にはスタインウェイのコンサートグランドピアノが二台置いてあって、ゆったりとしたくつろげる部屋だった。
アシュケナージさんが入ってこられ、とても親切に僕の話を聞いてくださった。怖いもの知らずだった僕は、大ピアニストの彼の前でピアノを弾いた。色々アドヴァイスをくださったあと、ピアノの前に座って実際に指を動かしながら、練習の仕方など細かく指導してもらった。彼は、世界的ピアニストになっても大変厳しいということをご自分の経験を通して話してくださった。

☆入学できなかったけれど
  その後、僕はテルアビブにあるルービンミュージックアカデミーの入学試験を受けた。結果は不合格。ヘブライ語の語学力不足が原因だった。ヘブライ語の先生であるシムハ先生や盲目の調律師の友人バレイさんも応援してくれていたので、とてもがっかりさせてしまった。
バレイさんは友人の有名な歌手に頼んで学校に電話をしてもらうという。僕はその名前を聞いて驚いた。彼女の名前は「ナオミ・シェーマー」と言って、第二の国歌ともいわれる「黄金のエルサレム」を作詞・作曲した人だった。誰もが知っている国民的女流歌手なのだ。実はパリにいた時、アンジェラがくれたイスラエルのテープにこの曲が入っていて、僕は何度も何度もこの歌を聴いていた。その彼女が大学の校長先生に「あの日本人青年を助けてほしい」と電話で頼んでくださったそうだ。しかし学校側は規則だからといって聞き入れてはくれなかったのだが、僕にはもう十分すぎるほどで、皆に感謝の気持ちでいっぱいだった。これが神様の御心なのかもしれないと思った。僕は学校とは縁のない人間なのだろう。
        *
  パリでの孤独の日々、毎日聴いて慰められていたギターの弾き語りの曲。ヘブライ語で歌われていたので、詩の内容は何もわからなかったけれど、魂に届いた歌声・・・。
ヘブライ語の先生でもあり友人のシムハ先生に歌詞の内容を教えてもらった。
黄金のエルサレム
  ぶどう酒のように清らかに済んだ
山の大気と松の香りが
すべての教会の鐘の音にあわせて
  夕方の風にのってくる
石と木は深い眠りにあり
夢に包まれている
一人さびしく座っている都
  その中心の城壁
(折り返しリフレイン)
  ああ 黄金の あかがね色の光の
  エルシャライムよ!
  私はあなたのすべての歌をかなでる
  ヴァイオリン(竪琴)です

 どうして井戸はかわききったのか
市場の広場も人通りもない
誰も旧市街にある神殿のある山を
顧みるものもない
岩の洞穴には風が吹きすさんでいる
誰もエリコ街道を通って
死海に降りていくものはない
(折り返し)

 しかし 私が今日 あなたに歌をうたい 冠をかぶせる為にやってきた時
私はあなたの子らの中で
もっとも小さい者で
詩人のうちでいと小さな者であった
  あなたの名のように 燃える口づけで
くちびるを燃やす
もし私が黄金にすっぽり包まれた
エルシャライムを忘れるならば・・・・・
(折り返し)
   ナオミ・シェーマー作詞・作曲

僕は知った。言葉の意味は
解できなかったけれど、音楽として歌った時、詩の言葉に羽が生えて、僕の魂まで直接届いたのだということを―。
もう一つ僕の心の深くまで響い
てくる歌があった。それはヘブル後で「ハコテルー嘆きの壁―」という。とても悲しい詩だが胸を打たれる。
嘆きの壁
  少女が嘆きの壁の前に立っていた
唇とほほを近づけて 彼女は私に言った。
「角笛の音が強く響いてくる
しかし静けさはより深い」と
彼女は私に言った
「シオンに神殿がある山がある」と
彼女は報いと恩恵を語らなかった
夕日に映えて彼女の額に輝いていたものは王国の紫だった
(折り返しリフレイン)
嘆きの壁にはヒソブと悲しみがある
嘆きの壁には鉛と血がある
石の心を持つ人もあり
人の心を持つ石もある

自分の部隊から唯一人
落下傘兵が泣き壁に立っていた
  彼は私に言った 「死は形をもたない
  しかし九ミリの口径があるだけだ」と
彼は私に言った
「私は涙を流してはいないし
また再び眼を伏せることもしない」
しかし神はご存知だろうか
わたしの祖父がオリーブ山に
葬られていることを
(折り返し)

 歩兵の一人の母が喪服を着て
泣き壁の前に立っていた
彼女は私に言った
「燃えているのは私の息子の目で
  壁にあるローソクではない」と
彼女は私に言った
「嘆きの壁の割れ目にはさむための
  どんな願いも私は書かない」と
何故なら つい昨夜
私が嘆きの壁に与えたものは
  言葉よりも 手紙よりも 偉大だから
(折り返し)

☆家族のように愛され
  まだ、ほかにもここに書ききれないたくさんの出会いがあったと思う。しかし最後に僕がイスラエルに住んでいた一年の間に一生忘れることのできない思い出を書いておきたいそれは僕のヘブライ語の先生であるシムハ・マリン先生との事だ。
  よく家に招かれて、先生の家族と一緒に食事をいただいたり、ヘブライ語を教えてもらったりした。そして僕もユダヤ人の習慣にならって、頭の上にキッパー(ユダヤ教徒がかぶる丸い帽子のようなもの)をかぶったりした。これは、いつも自分よりも偉大な方がおられることを思い出すためだそうだ。
いつの間にか僕は、シムハ先生、奥様のルティーさん、兵役に服している長女のドリットさん、長男で当時十五才だったラーミー君、妹のニラちゃんたちと、本当の家族のように親しくなっていた。シムハ先生は冗談で「うちのラーミーと晶彦をかえっこしよう。ラーミーは日本の晶彦の家族のところに行って、晶彦はうちの子になりなさい」といわれるくらい、皆に愛されていた。
         *
  ある日、ヘブライ語を習いに行った時のことだ。普段と同じように、楽しくおしゃべりをしながらレッスンをしてもらっていた。突然シムハ先生は「私の話を聴いてくれるか」
と静かに、しかし少しつらそうに言われた。『何だろう』と思った。すぐに僕は、先生が何か大切なこと告げようとしているのだと直感した。シムハ先生は話を切り出された。
☆ユダヤ民族の悲劇
「私はポーランドで生まれた。子供時代は幸せだった。音楽をとても愛する国民で、ほら
あの有名なショパンもポーランド人だ。どこかの家からピアノの音が聞こえてくると、みんな立ち止まって耳をすます。中には、その家のテラスにむかってお金を投げ込む人もいるくらいだ。」
僕は『いいなあ。音楽が生きることに、生活になくてはならないものなん
だなあー』とうらやましく思った。
先生はつづけて話された。
「しかし、そんな幸せな日も長くはつづかなかった。戦争が始まり、ポーランドもドイツ軍に占領されてしまった。首都のワルシャワも・・・。わたしたちユダヤ人はとてもひどい扱いを受けた、その当時、私は十五才の少年だった。家族が何よりも大切だったのに、
ある日突然、つらい別れがあった。」
僕は心を落ち着けて聞いていた。
「ドイツのゲシュタポが、私たち家族みんなを外に引っ張り出した。そして私の目の前で両親は銃殺された・・・・・」そういい終わると、シムハ先生は思い出したように号泣された。僕は何も言えないまま、どうしたらよいのかもわからず・・・しかし、気がついたらシムハ先生の手をしっかりと握り締め、一緒に泣いていた。あまりの悲しみにかける言葉はないのだと思った。そして日本人である僕と、ユダヤ人であるシムハ先生との間にある溝の深さ、苦難の民ユダヤ民族の悲劇を僕は肌で感じた。
「そしてたくさんの人々が殺されたり、収容所に送られて行った。私も十五才で島流しのようになって、強制労働させられながらあちこちに回された」
僕はただ聞くだけだった。そんな自分に自問自答していた。
『僕はこんなに尊敬し、大好きなシムハ先生に、慰めの言葉一つかけてあげることもできず、何と無力なのだろう。僕には自分の国もあって、帰りたくなったらいつでも帰ることができる。両親も兄弟もみんないる。生きていることをどんなに神様に感謝しなければならないか。今、僕は愛するシムハ先生からかけがえのない大切なことを教えられたのだ。僕とシムハ先生との間の深い溝、それを埋めあわせることはできない。しかし、心でしっかりと受け止めたし、共に泣くこともできた。僕がイスラエルに来たのは、この人に会う為だったのだ。』
このとき初めて、僕はイスラエルに来たことの本当の意味を理解した
シムハ先生は思いっきり泣かれたからか、とても穏やかになって「ありがとう・・アキヒコ」と言われた。不思議なことに、とても平安な空気が僕たち二人の間に流れていた。先生は僕を心から愛し信頼してくれたからこそ、誰にも話したくないだろうつらく悲しい体験を語ってくださったのだ。この日のことがあってから、僕たちはもっと深い友情の絆で結ばれるようになった。その後僕が日本に帰ってからも、心の交流はずっと続いている。
        *
一九九五年、神戸の大地震(阪神・淡路大震災)の時、いち早く心配して国際電話をかけてきてくれたのもシムハ先生だった。僕はヘブライ語のシャロームという言葉の意味を深く想わずにはいられない。「平和・平安があるように。」あなたの心に、私の心に、そして世界中に!
        シャローム!

デビュー30TH記念コンサート『林晶彦の世界~永遠への飛翔~』
ページの先頭にもどる
お問い合わせはこちら
© 2018 anupamo.net
Photo by Kotaro Suzuki