ESSAY

エッセイ

ミルトス2006/6月号

2章 はじめてのイスラエル一人旅

イスラエルの歌に魅かれて
☆ 2章 はじめてのイスラエル一人旅

一九七五年十二月二十四日(水)から、冬休みを利用して一度イスラエルを旅してみようとパリを出た。ここからは、旅の日記として書いてみたいと思う。
  夕方テルアビブ空港に着く。友人が迎えに来てくれていてホッとした。バスとタクシーを乗り継いで、キブツ・ダリアに着く。はじめてイスラエルに着いた夜、星が本当に美しく、たくさん輝いていたのを覚えている。何か超自然的なものを感じた。流れ星がよく見える。空がとても近く透きとおっている。空気がきれいなのだろう。
  翌日、ナザレへ行った。ナザトは『ナザレのイエス』という映画にもなったイエス・キリストが、母マリア、父ヨゼフと共に大工の子として生活していたところだ。歴史的な場所や大きな教会のある町を散歩した。何だか二千年前にタイムスリップしたみたいだ。教会などの建築物は、何度か再築されたそうで、大変新しく美しかった。
  夜、海辺の砂の上を歩いていた。風が強くバスから降りてユースホステルを探そうとしたが、方向もわからないし、暗くて何も見えない。とても不安だった。その時、遠くから車のライトが近づいてきた。その車は僕の前で止まった。「どこへ行くのか」と聞くので事情を話すと「乗りなさい」と言って僕の探していたユースホステルまで送ってくれた。「本当に助かりました。ありがとうございます。」と礼を言うと「困った時はお互い様だから」と言いながら、その親切なイスラエル人は去って行った。
今夜はハイファーという町の近くに泊まる。たいへん強い風が吹いているが、夜はいつも強風だそうだ。ここは何もなくて寂しいところだ。部屋の外にはオレンジ色のアウトバーンが長く光っていた。 十二月二十六日(金) 朝起きて外を見るとアウトバーンの向こうは、地中海に面している事がわかった。強風は今朝もずっと続いていた。ユースホステルで知り合ったドイツ人とスイス人の青年たちと一緒にハイファーのバス停まで行く。アコーのバス停で又彼らと会ったので、三人でアコーのオールドシティーを見学した。スイス人の青年は、ドイツ語・フランス語・イタリア語・英語、その上ヘブライ語まで話せるそうで、僕とはフランス語で話をした。
オールドシティーは古い建物ばかりで、美しく清潔な町とは言えない。しかし昔のままの姿が残っているのは魅力的だ。小さな敷地には、貧しそうな子供たちが遊んでいる。海に面したところには大きな壁があった。昔は城のようなものがあったに違いない。スイス人の青年がその歴史を話してくれたが、僕の曖昧な語学力でははっきり理解できなかったこういう時は語学力の必要性をひしひしと感じる。もっとしっかり勉強しなければと思った。
ハイファーまで戻り、そこで彼らと別れ、僕は一人でティベリアに行くことにした。ティベリアに着いても、まだ雨が降り続いていた。ユースホステルも閉まっていたのでホテルを探したが、安いホテルはなかった。ひと宿六〇ポンド。一ポンドは五〇円なので、三千円ほど(その当時の値段)になる。
イスラエルでは、ヨム・シャバット(安息日)といって、ユダヤ民族の歴史・宗教的習慣により、金曜日の夜から土曜日は、お店がすべて閉まってしまうのだ。他の国から来たものにとっては、何も換えないので困ってしまう。文化や習慣の違いを知るのも、その国を理解するためにはとても大事なことだ。
十二月二十七日(土) 朝、テイベリアの町を歩き、湖近くのボート置き場のおじさんと話をした。この湖はガリラヤ湖といい、旧約聖書時代はキネレト湖とも呼ばれた。あとで知ったことだが、新約聖書時代のイエス・キリストが育たれたのがこのガリラヤ地方だそうだ。美しい静かな湖である。今日はテルアビブのユースに泊まる。
十二月二八日(日) 朝八時半、朝食をすませてテルアビブの町を回る。まず初めにイスラエル・フィルの本拠地であるマンオウディトリウムというコンサートホールに行って、その日のダニエル・バレンボイム指揮のイスラエルフィルのチケットを買う。日本語を少し話すイスラエル人と話をしてから、シャロームタワー(当時テル・アビブで一番高い建物)に登った。高いので町並みがよくわかった。   コンサートに行った。この日はベートーヴェンプログラムだった。さすがにオーケストラの音の調和と磨かれ洗練された響きは心地よかった。音に柔らかさと、ずっしりと落ち着いた重さがあって安心して聴けるのだ。そして安定した音程とビロードのような、シルクのような音色は、イスラエルフィル独特のものだろうこの日は疲れたのですぐに眠る。
十二月二九日(月)  朝起きたら曇っていた。朝食をすませてユースを出ようとしたら雨の音と、時折雷の音が聞こえてくる。雨の中をバスでテルアビブ大学に行く。音楽学部を尋ねて見学する。それからバスでエルサレムに向かった。その間も雨が降り続いている。三時間ほどでエレサレムに着いた。エルサレムに着いたら雨はやんでいた。すぐ友人に聞いた安宿をみつけて、荷物を置いてから町に出かける。エルサレムはユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖地だ。昔のままの建物が残っていて、まるで何千年も前の時代にいるように思えた。夕方だったので、古い教会にも入れず、また明日行くことにする。町の中を歩いていると、アラブ人の少年が話しかけてきた。とても人懐こく日本人が好きみたいだ。
「僕の父が近くでレストランをしているので来ない?」と誘われた。今夜はそこで食事をすることにした。アラブ料理を食べながら、家族の人たちとも仲良くなって、楽しく夜遅くまで話をした。日本の武道のこと、文化や風習のこと、特に若者たちは空手にとても興味をもっていた。
「お前もできるのか?」と聞かれ、少年時代に少し習ったことがあった僕は、そのころ映画で広く知られていたブルース・リーのまねをしてみせた。彼らはとても喜んで、僕が達人だと勘違いをしてしまったようだ。日本人なら誰でも武道が出来ると思っているらしい少ししてから、彼らの友人で空手をやっているという人が数人の弟子を連れてやってきたので困ってしまった。僕は何とか言い逃れをしてその場を立ち去った。今思えばおかしいが、その時は知らない土地で一人、必死の思いだった。
十二月三〇日(火) 朝一〇時ごろから、アラブ人の知り合いにエルサレムのオールドシティー旧市街を案内してもらった。エルサレムにあるイスラム教の金色のモスクはエルサレムの象徴だ。黄金のエルサレムといわれるにふさわしい美しい建物だ。そして嘆きの壁では、今でもユダヤ教を信じる人々がその壁の前で声を出しながら祈っている。コーランの祈りの声、嘆きの壁のユダヤ教徒たちの祈り、キリスト教の鐘の音。いろんな祈りと香りが織り交ぜられた歴史の層のような響きが、エルサレムの町を包んでいる。人々の雑踏の声も、永遠の響きの流れの中でざわめいている。朝は曇っていたが、昼過ぎには良い天気になってきた。歩き疲れたので、一度ホテルに戻って少し休んでからオランダ人の友人と買い物に行った。南アラビアの織物一五〇ポンド(イスラエルポンド)。毛糸で縫ったバンド二五ポンド、夏物の上着一〇〇ポンド。アラビアの店でたくさん買った。日本に送ることにする。夕方から又雨が降ってきた。
十二月三一日(水) 朝一〇時、昨日出会った二人の日本人とエルサレムからベツレヘムに向かう。タクシーで一〇分くらいの距離だ。その日は修道院に泊まる。ベツレヘムとはヘブライ語で「パンの家」という意味で、二〇〇〇年前にイエス・キリストがお生まれになった町として有名な所だベツレヘムの町を散歩する。アラブ系の人たちが多い地区で、あまり見るものはなかったが、キリストが生まれたといわれる場所に行った。昔、そこは馬小屋だったのだろう。現在は大きな教会の中にあった。星型の模様の上に幼子イエスの像が置かれていた。誰かが「この星の前で祈るとどんな願いでも聞かれるのだよ」とささやいたような気がした。僕はその時、自分の心に描いた願いをたくさん祈ったような気がする。何の信仰ももっていなかったけれど、神の存在は信じていた。
  ずっとまた歩いてユダヤ教の会堂(シナゴーグ)を見学する。黒い帽子と長いひげをはやして祈っている人々の姿が少し滑稽だった。ベツレヘムの町を三人で歩き回ってから、ワインや食べ物を買ってホテルに戻った。この日の夜は、ホテルの部屋で十二月三十一日のおおみそかの祝いをする。

一九九六年 一月一日(木) 朝目覚めると、素晴らしくよく晴れたポカポカの陽気だ。
「今年、一九九六年も僕にとって良い年になり、大きく成長できますように―。」と祈った。エルサレムに行く。そこで日本人の旅人たちと別れる。エルサレムのルービン・ミュージックアカデミー(音楽学校)と博物館を見学する。イスラエルの作曲家のレコードをスコアを見ながら聞いたりする。そのあと、エルサレムの近代的な町(旧市街地ではない)を散歩し、この地区のユースに泊まる。
一月二日(金) エルサレムからエン・ゲディ(死海の畔)へ南アフリカの人と行く。旅先では、出合った人とすぐ仲良くなって行動を共にすることがある。「旅は道づれ」ということわざどおりで、本当にいいものだなと思う。九時三〇分エルサレム出発、十時三〇分エン・ゲディに着く。死海で少し日光浴をした。世界で一番海抜の低いところだそうだ。(海面下、三九八メートル)塩分がたまって塩の柱が立っている。泳いでいる人もたくさんいた。沈まず体がプカッと浮くので面白い。友人(南アフリカから来た白人)はエルサレムへ戻る今僕は一人で高い山に登り、死海を見下ろしている。耳には川の音が聞こえ、動物たち(シカなど)もすぐ近くに歩いている。大きな岩ばかりで大自然を感じる。死海の向こう側にはヨルダン(アラビア大陸)がそびえている。夕食の時、夜の集いでいろんな国から来た人たちと楽しく話をして過ごす。
一月三日(土) エン・ゲディからマサダに、スイス人の男の子・イギリス人の女の子と一緒に行くことにする。大変良い天気で静かだ。鳥の歌と虫の飛ぶ音が聞こえる。土の岩山ばかりだ。僕たちは歩いて山頂に登った。
  古く荒れ果てた建物を見た。ただ石を積みあげて造ったものが多く、中には模様のある石畳もあった。紀元七十三年のエルサレム陥落後、生き残った愛国者たちは城砦に集まって立てこもり、ローマ軍の包囲にあって最後まで抵抗したが、三年後すべてが終わった。そして彼らは、ローマ軍の奴隷になることより自殺することを選んで滅び去ったというイスラエルの歴史的悲劇のあったところだ。
そこは当時のままの姿で残っていた。山の高みから死海を見下ろすと素晴らしい眺めだ。廃墟から見る青い美しい海、死海。その当時のユダヤの人々はどんな気持ちでこのはるかな風景を見ていたのだろうか・・・・。   暖かい日だったので寝そべって日向ぼっこをしたり、久しぶりに自然の中でのんびり過ごした。マサダからオートストップでアン・ゲディーに戻り、ユースで宿泊する。
一月四日(日) エン・ゲディを朝八時出発、九時頃エルサレムに着く。日本人の友人竹田澄夫君とうまく約束の場所で会える。彼とイギリス人のリンネとエルサレムオールドシティーを散歩して、ドームオブザロック(岩のドーム)に入る。ここは回教徒にとってはマホメットが昇天した聖地であり、ユダヤ人にとっては、息子イサクを犠牲に捧げようとしたアブラハムに神の使わした天使が現れ、その行為を止めたといわれる聖所であるらしい。夢にまで見た黄金のエルサレム。イスラエルの歌にあるようにその美しい姿に心を奪われた。午後からはイスラエル美術館を見学する。
一月五日(月) 今日は朝からオートストップで紅海の港町エラートまで行く。途中荒野の中を友人の澄夫君と歩いた。乗せてもらった車が途中から行く方向が違うので降りなければならなかったからだ。二人とも不安だったが、何もない果てしない荒野を歩き続けた。だんだん日が暮れてどうしたらいいかわからなくなっていた時、向こうの方から1台の車が来たので手を大きく振った。「なぜこんなところを日本人が歩いているだ」と不思議そうに見られたが、命拾いをした。夜の七時頃、やっと目的地エラートに着く。わりと大きい近代的な町だ。澄夫君の友人でオランダ人の家に泊めてもらう。
一月六日(火) 今日はエラートの町をうろうろしたり、海中展望塔に行って美しい魚を見たりして楽しんだ。海の水はすきとおって大変きれいだ。その昔、旧約聖書にモーゼがイスラエルの民をエジプトから導き出し、紅海を渡ってイスラエルの約束の地に入ったと書かれてあった。
一月七日(水) エイラットの海岸の浜辺で日光浴をしてのんびり過ごす。午後二時、エラートを出発してエルサレムに向かう。夜七時頃エルサレムに到着。明日からは一人で残りの旅の日々を大切に過ごそう。 一月八日(木) 朝、エルサレムの旧市街にあるキリストの墓の教会に行く。以前アラブ人の友人に連れてきてもらったことがあったが、その時はキリストが亡くなったところだとは知らなかった。大変古い大きな教会で「聖なる墓」と呼ばれているそうだ。エルサレム最後の日なので、昼すぎまで町中を歩き回った。1時頃、テルアビブ行きのバスに乗る。
一月九日(金) ナタニヤ行きのアウトバーンのところで澄夫君と別れる。今、シャロームタワーの屋上のカフェにいる。とても素晴らしい青空で、夏のように太陽が降り注ぎ暑いくらいだ。地中海が青く輝いている。友人がいればもっと楽しいのにと思った。
一月十日(土) 今日は朝から鳥たちの歌が聞こえてくる。暖かい日差し、澄みきった青い空の下、この三週間の旅を振り返りながら、ユースの自分の部屋で日記を書いている。窓からの光が頬をさす。明日はパリに帰る日だ。
  夜、日本からの留学生とイスラエル人の女の子と夕食を共にする。イスラエルでは男も女も兵役がある。彼女もいつも軍服姿だ。
一月十一日(日) 朝五時半に起きて荷物をまとめ、ユースを出る。今、飛行機の中。なぜかパリに戻るのがつらい。また二月までにはイスラエルにすぐ帰ろう。イスラエル留学を決心する。

☆パリにて
  両親に手紙を書いてイスラエルに行きたいことを伝えたが、「せっかく芸術の都パリに来て音楽の勉強をしているのに、どうして戦争をしている危ない国に行くのか・・・。」と反対された。反対されて当然だと僕は思った。『なぜイスラエルに行きたいのか』自問自答した。僕は音楽の勉強以上の大切なもの―神の声とでも言ったらいいのかー何かが僕を呼んでいるように思えた。そして、僕の魂もそれに惹きつけられてゆくのをいつも感じていた。それは、この世の悲しみを超えたところからの希望。あの絶望の中で僕を救ってくれた、目には見えず耳には聞こえないけれど、はっきりと出会った存在。神様としか言いようのない存在への僕の応答だった。何と表現すればいいのだろう。『行くしかない』と僕は思った。
  パリでの作曲の先生やピアノの先生にも、ホームステイをしていた下宿のお世話になった人たちにも「父が病気なので日本に帰らなければならなくなりました。」と偽って伝えた。というのは、ユダヤ人に対する偏見が強かったし、プライドの高いフランス人にはどうしてもイスラエルに行くことを言えなかったのだ。本当のことを言ったら、絶対に反対されるし、自分の真意を理解してもらえないことはわかっていたから。パリで使っていたチェコ製のピアノも売って旅費にした。

デビュー30TH記念コンサート『林晶彦の世界~永遠への飛翔~』
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