ESSAY

エッセイ

ミルトス2006/4月号

1章 17歳の旅立ち

イスラエルの歌に魅かれて
☆ 1章 十七歳の旅立ち

僕の生まれ育ったのは、兵庫県西宮市苦楽園という山の麓だった。自然のふところに育まれるように過ごした子供時代、自由に遊びまわっていた幸せな記憶だけが残っている。
  僕が小学五年の時、兄がギターをやりだした。その影響もあって音楽に興味をもちはじめた。そのころ、はじめて自分で買ったドーナツ版のレコードが、イギリスの人気ロックグループ、ローリングストーンズの「黒くぬれ!」だった。
  そのレコードに針をおとした瞬間、体中に衝撃が走った。ギターの物悲しいイントロから始まり、激しいドラムの高鳴り。覆いかぶさるようにインドのシタールとタブラの揺さぶるような鼓動の波が打ちよせ、ミック・ジャガーの叫びのような声がうめくように歌いだす。圧迫れた人間の魂の叫びのようなものに突き動かされる思いがした。
  それは僕がはじめて音に感じ、動かされた体験だった。

中学に入ってすぐ、友人たちとロックバンドを組んだ。学校の勉強はろくにせず、音楽に没頭し、ギターを弾く毎日だった。学校に行っても勉強はせず、いつも先生からおこられていた。試験の答案用紙も白紙で出した。授業はおもしろくなく、いつもうわの空。僕の本当に求めているものは学校にはなかった本を読むのは大好きだった。図書館で読みたい本を探し、かばんいっぱい詰め込み家に帰ったものだ。
哲学書や詩の本、大作曲家の伝記など多くの本を片っ端から読みあさった。そんな中でも、ドイツの作家「ヘルマン・ヘッセ」が僕に大きな影響を与え、生きる勇気をもたらしてくれた。確か、「あなたの信じる道に歩みなさい。たとえ途中で倒れ、のたれ死んだとしても、後悔はない」というようなメッセージだったと思う。僕の心は何かに飢え乾いていた☆バッハの音楽で開かれる
そんなある日、ラジオから流れてきた音楽が、僕の心深くに触れてきた。何かを求めて生きてきた僕の心に、静かに語りかけてくるように・・・。僕はその音に真実を感じた。
人を裏切ることのない誠実さ、平安な響きをー。それはヨハン・セバスチャン・バッハの音楽だった。
それからは、とりつかれたようにクラシックの音楽を聞きあさり、コンサートに行き、大きく音楽の世界へと開眼されてゆくのだった。
近くのピアノの先生を紹介してもらい、レッスンを受けに行くことになった。木村先生という女性の方だった。
先生は、東京でユダヤ系ロシア人の大ピアニスト、レオニード・クロイツァー氏に師事され、クロイツァー先生が日本を離れられる時にいただいたというすばらしいグランドピアノを持っておられた。先生は僕の音楽への情熱をとても大事にしてくださり、僕を自由に型にはめないよう指導してくださった。
小さい頃、少し習っただけなので指は思うように動かない。学校をさぼり(朝弁当を持って学校に行くふりをして裏山に行き、両親が仕事に出かけたのを見計らって家に戻る)、毎日十時間ぐらい猛練習をしていた。あるレッスンの時「普通みんなバッハになった時、いやになってピアノをやめる人が多いのに、あなたは本当に楽しそうにバッハを弾くわね」といわれた。そんな生活を二年ほど続けていた。
☆パリ行きを選ぶ
『これからどうしよう・・・。』真剣に自分の歩む道を考える時がきた。当時流行していたフランスのミッシェル・ポルナレフの歌声に魅せられて、フランス語の学校に行き、英語も学びながら、フランス行きを決断したのだった。音楽だけでなく、文学も詩も絵画にも興味のあった僕は、パリを選んだ。
親しい友人や学校の先生にも相談したが、みんな反対した。両親もはじめは反対したけれど僕があまりにもしつこく、諦めずにパリ行きを説得したので、とうとう父が「そんなにまで言うのならパリの土になってこい」と許してくれた。
モスクワ経由パリ行きの飛行機の中、僕は心の中で「やった!」と叫んでいた。見送りに来てくれた両親、兄弟、親戚の人たちは泣いていた。

憧れのパリ。パリは僕にとって何もかも新鮮だった。パリの街の香りと光が僕を幸せにした。オランピア劇場では、フレンチポップス界のスーパースター、ミッシェル・ポルナレフのコンサートがあり、彼の大ファンだった僕は、何日も通いつめた。
ルーブル美術館、印象派美術館、ロダンの彫刻美術館・・・。そして、ノートルダム寺院のステンドグラスに感動し、時を忘れる毎日だった。その一方、言葉が片言程度の僕は、パリの地下鉄で何度も迷ったり、何もかも失敗だらけの日々が続いていった。

☆恋の果てに「イスラエルの音楽」
  そんな十七歳のパリの日々、フランス語の学校で、いつも窓の外ばかり見つめている女の子がいた。僕も日本から来てまだ友人がいなかった。彼女に手紙を書いてみたくなり、辞書を引きながら下手なフランス語でラブレターを書いた。あくる日、授業が終わった後勇気を出して彼女に手渡した。彼女は顔を赤らめ、ゆっくりと「メルシー・ボクー(ありがとう)」と言ってくれた。彼女の名前はアンジェラ。ドイツのマインツ(フランス読みはマイヨンス)という都市から来たらしい。とてもおっとりした性格で、金髪の巻毛が美しく、僕と同い年の十七歳だ。
「コンサートに行かない?」と誘ったら、喜んでうなづいてくれた。
パリのシャンゼリゼ劇場の一番後ろの学生割引の席を二枚買った。ウラディミール・アシュケナージというユダヤ系ロシア人ピアニストのコンサートだった。僕たちは、小さく見えるピアノから響くベートーベンの音楽に聴き入った。それがはじめてのデートだった彼女はドイツ語からフランス語、僕は日本語からフランス語、二人とも上手くない共通の言葉で何とか会話をしていた。アンジェラとは、ドイツ語で「天使」の意。本当に名前そのままの女の子だったが、おだやかな性格の中に、何か悲しみを秘めたように感じる時がある。ある日、いろんな打ちあけ話をしてくれた。彼女がフランスに来たのは、ボーイフレンドがいたからだそうだ。けれどもその彼は、アクアラングで海に潜っていた時、事故にあい亡くなった。まるで感情がないかのように淡々と彼女は話した。
『それでずっと一人で外ばかり見ていたんだなぁ』と理解できた。
フランスに来る前に行っていたイスラエルのキブツ(農業共同体)の写真を見せてくれたり、イスラエルの歌のテープを聞かせてくれたりした。その歌はとても僕の心に残った。(後に、その歌は僕の運命を決めることになるのだが・・・・・)
そんな彼女といた楽しい日々も終わりに近づいた。ついに彼女がドイツに帰る日がやってきたのだ。帰り際、駅のホームで僕に優しく頬ずりした彼女は、一本のイスラエルのテープをくれた。そして、僕の恋は終わった・・

彼女がドイツに帰ってから、僕はそのテープばかり聴いていた。ヘブライ語で歌われているので意味はまったくわからなかったが、その切々とした歌声は、僕の魂に深く染み渡った(後にそれが「ハコーテル」や「黄金のエルサレム」だと知った。

☆病の中で―悲しみの淵で見たもの―
ある日、体が動かなくなってしまった。パリでの緊張した生活の疲れがたまってか、自分で立つことができない。下宿のおばさんに支えてもらいながら大学病院に行った。調べてもらうと急性肝炎だった。すぐに入院、日本にいる両親に連絡をとってもらう。外国で病気になると、とても不安だ。自分の髪の毛が黒いこと、自分は異邦人だという強い意識そして、毎日のようにお蕎麦が食べたくなったり、富士山の夢を見たり・・・

元気な時は日本のことなど忘れて生きていたのに、病気になって初めて「死ぬ時は絶対日本で死にたい」と思うようになった。大切な祖国、愛する祖国、僕の日本。

入院の期日を終えて下宿先で安静にしていたある日の真夜中のことだった。
「僕は学校も途中でやめ、音楽こそ僕の希望僕のすべてだと信じてこんなに遠い国までやって来た。それなのに今は病でピアノも弾けない、クラシックの音楽を聴くのも疲れてしまう。家族にも会えない、夜も去ってしまった・・・。僕には何もない。」という絶望感に身も心も打ちのめされてゆく感じだった。
音楽が自分にとってのすべてだったのに、その音楽も今の僕を救うことはできない。それに信仰も何も心の中に持っていなかった。この時ほど信じることのできるものがほしいと思ったことはなかった。僕はむなしく真っ暗な中に取り残されたようだった。暗闇の中で、今にも消えいりそうな命のろうそくの光のようでもあった。先のない無力感、虚無感、絶望感の内に死んでゆくのか・・・。人はただ空しく生き、真っ暗な中に消えてゆくのだろうか・・・。生きているということには何の意味もないのか・・。
取り留めのない思いや考えが、脳裏に浮かんでは消えた。
そんな深夜の孤独の中―急に体中が熱くなってきた。何かに打たれ感電したように、体中に何かが触れてきた。僕は『もうすぐ死んでゆくのだろう・・・』と思った。しかし、それは温かく優しかった。ずっと捜し求めてきたものに出会えたという不思議な感覚だった。僕の魂深くまで届くその何かは、言葉を越えて伝わってくる・・・。
星が小さく、はるか彼方に光った。多分心の瞳に映ったのだろう、その小さな星がだんだん近づいてくる。いつの間にか僕は、目の前に青い地球を見ていたのだった。
その時、僕は自分がどこにいるのかわからなかった。その青く美しい地球を見て、涙がボロボロあふれてきた。お腹の底から熱いものがこみあげてくる。そして、さっきまでの悲しみや絶望感はなくなり、喜びが泉のように熱い涙となって溢れ出てくるのだった。生まれて初めて手を合わせ、『神様!』と言っていた。けれどもしばらくたつと、僕はその美しい地球に『なぜ?』という疑問がわいてきた。こんなに美しい小さな星の地球。この中では戦争、憎みあい、人種差別、矛盾をいっぱい感じた。僕はその言葉にならない思いのすべてを、目に見えない何かに向かってぶつけた。すると、すぐに答えがあった。それは言葉を通してではなく、直説的に僕の一番深いところに触れてくるのだった。以心伝心のように―。実際は聞こえたのか、感じたのかわからない。もしかしたら五感を超えたところの働きだったのかもしれない。
言葉にすればこんな風だった。
『人間がどうあろうと、私はあなた方を愛し許している』
そして、優しい電流のようなものが体中を貫いた。またもや涙が怒涛のように流れた。心の中で僕は叫んでいた。
「ごめんなさい。ありがとう。ありがとう!」
それは夢ではなく現実だった。
次の朝起きた時、心も体も洗い流されたようにすっきりとしていた。少し外に出てみたくなった。下宿の階段を下りて外に出てみると、何もかもが新しく違った風景に見えた。まるで初めて見るようで、並木道の樹々の緑は歌い、キラキラ輝いている。とても幸せな気持ちを感じている自分がいた。隣のパン屋にフランスパンを買いに行った。昨日までは意地悪そうに見えていたパン屋のおばさんがとてもいとおしく見えてくる。
(何かが変わった。)と思った。   その時から僕の心に変化がおき、何かが現実に変わっていったのだった。念のため、もう一度病院に検査を受けに行った。結果は、完全に癒されていた。

アンジェラがドイツに帰ってから、ずっと彼女がくれたイスラエルの歌のテープを聴いていた。他の音楽は聴けなくなってしまい、そのテープをすり切れるほど聴いた。僕の唯一の心の慰めだった。

☆イスラエルフィルとの感動的な出会い
ある日パリに、「イスラエル・フィル・ハーモニー管弦楽団」という、弦楽器が世界一ともいわれている幻のオーケストラが、インド人指揮者ズービン・メータとやってきた。演奏曲目は、グスタフ・マーラーの「復活」
大合唱とオーケストラの為の大曲だ。
学校のピアノの先生と数人の生徒たちとで聴きに行った。日本にいた時も、パリでも、よくいろんなコンサートに行ったし、オーケストラもいろんな国の有名な楽団も聴いてきたが、イスラエルフィルの弦楽セクションの響きは、生まれて初めて鳥肌が立つような音だった。その上ユダヤ人作曲家マーラーの曲とあって感動的な演奏だったのは言うまでもない。
ディアスポラの民(離散の民)にとって、ヴァイオリンという楽器は持ち運びしやすい。世界中に離散していたユダヤ人の音楽家たちがイスラエル建国の時から結成したオーケストラで、特に弦楽器の美しは世界最高とうたわれている。
アンジェラからもらったイスラエルの歌のテープ、病の中で見た青く美しい地球、そしてイスラエルフィルの弦の響き・・・。
  僕の心はいつの間にかイスラエルに惹きつけられていった。自分の国である日本に帰りたいと思うような、ホームシックにかかったような感情。哀愁のある旋律をもつイスラエルの歌。そこに僕は魂のふる里を感じたのだった。長い遍歴の果てに―。

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